2023・6・4 主日礼拝メッセージ 聖餐式
「うしろのものを忘れ、神の召しを目指す」
ロトの妻のことを思い出しなさい
創世記19章
ルカの福音書17:26-37
ピリピ3:12-14
ルカの福音書9:61-62
質問
1
創世記19章には、主が二人の御使に命じて、ソドムとゴモラの町を硫黄と火で滅ぼされる経緯が書かれています。
この時、主がロトに語られた中で最も大切なことは何だと思いますか。
2
イエスさまも、創世記19章を引用されて、世の終わり、神の国が来る時、ご自身が再び来られる時、どんなことに注意しなければならないと言われていますか。
3
ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった。
創世記 19章26節
ロトの妻はなぜ振り返って塩の柱になってしまったと思いますか。
答え
1
彼らを外に連れ出したとき、その一人が言った。「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこにも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。そうでないと滅ぼされてしまうから。」
創世記 19章17節
「うしろを振り返ってはいけない」と言うことです。
2
また、ロトの日に起こったことと同じようになります。人々は食べたり飲んだり、売ったり買ったり、植えたり建てたりしていましたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降って来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。
人の子が現れる日にも、同じことが起こります。その日、屋上にいる人は、家に家財があっても、それを持ち出すために下に降りてはいけません。同じように、畑にいる人も戻ってはいけません。ロトの妻のことを思い出しなさい。自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。
ルカの福音書 17章28~33節
ロトの妻のように、自分の肉のいのちを救おうと努め死んでしまう者にならないように注意するように言われています。
3
「振り返った」と訳されていることばの語根はヘブライ語で ナバットנבט見る、と言うことばです。そのヒフィル態ですので、
目を注ぐ、尊重する、敬意を払うと言う意味になります。しかも、その未完了過去継続型ですので、次のように訳すことが出来ると考えられます。
「ロトの妻は、ソドムとゴモラを慕い続けていた(ので振り返ってしまった)」
ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる前であったので、その地はツォアルに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。
創世記 13章10節
おそらく、ロトの妻は「主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた」ので、肉の欲望で主の召しに従いきれずに自分の過去の生活の方が良かったと悪魔の支配を慕ってしまったのであろうと考えられます。
そこで、ロトは出て行き、娘たちを妻にしていた婿たちに告げた。「立って、この場所から出て行きなさい。主がこの町を滅ぼそうとしておられるから。」しかし、彼の婿たちには、それは悪い冗談のように思われた。
創世記 19章14節
ロトの婿たちにのも、それは悪い冗談のように思われたのです。
要するに、ロトの妻は(婿たちも)完全に主の召しを大切に出来ずに、ソドムとゴモラの影響を断ち切ることが出来なかったので塩の柱になってしまったのです。
結論
私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。ですから、大人である人はみな、このように考えましょう。もしも、あなたがたが何か違う考え方をしているなら、そのことも神があなたがたに明らかにしてくださいます。ただし、私たちは到達したところを基準にして進むべきです。兄弟たち。私に倣う者となってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。というのは、私はたびたびあなたがたに言ってきたし、今も涙ながらに言うのですが、多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。
ピリピ人への手紙 3章12~21節
私たちは、ただ一つのこと、すなわち、「うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して」走っていることを忘れていけません。
実は「多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいる」のです。「その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たち」すなわち「ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった」ロトの妻と同じ者たちのことです。
イエスさまは、その「ロトの妻のことを思い出しなさい」と言われているのです。
イエスさまを再びこの地上にお迎えするために召された者たちが集う教会は、自分たちが召し出される前の、悪魔の支配する罪悪世界である、ソドムとゴモラを慕い続けては信仰生活は出来ません。その人たちの最後は滅びです。イエスさまの十字架によって、うしろのものである悪魔の支配は完全に葬り去られたことを宣言しましょう。うしろのものは忘れていいのです。それが恵みです。むしろ、召しのことを考えましょう。
彼らが道を進んで行くと、ある人がイエスに言った。「あなたがどこに行かれても、私はついて行きます。」
イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」
イエスは別の人に、「わたしに従って来なさい」と言われた。しかし、その人は言った。「まず行って、父を葬ることをお許しください。」イエスは彼に言われた。「死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」また、別の人が言った。「主よ、あなたに従います。ただ、まず自分の家の者たちに、別れを告げることをお許しください。」すると、イエスは彼に言われた。「鋤に手をかけてからうしろを見る者はだれも、神の国にふさわしくありません。」
ルカの福音書 9章57~62節
祈り
私はイエスさまの十字架によって贖われた者です。悪魔は私にいっさい手出しすることが出来ないことを宣言します。
うしろのものを忘れて、神さまの召しだけを目指して歩むことが出来ますように。